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気晴らしに。
by ecm84
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虚言

今日は、20世紀を代表する日本の思想家であるジャイアンについて解説したいと思います。

1、ジャイアンとは誰か
 ジャイアン(1969-現在)は、1969年6月15日、都内の雑貨屋の長男として生まれる。実はジャイアンというのはペンネームで、本名は剛田武である(以下剛田)。家族には父母の他、妹にジャイ子がいる。代表的著作は『物体と自我(2004、石皮新書)』で、その著作内で唱えられている「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」という言葉はあまりに有名。
以下の文ではこの言葉と哲学における緒論との関係を見るとともに、剛田の思想について概略的に触れたいと思う。

2、所有するということ
 「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」について考える際、まず踏まえていなければならない事は剛田による所有格「~の」の定義である。剛田によれば先の著作内の議論での意味において、何かを所有している状態とは、対象が自我に対して影響力を持っている状態である。つまり、法的な意味での「所有」を超えて、自我に対して何らかの変化を与えうる全ての対象が所有の対象である。それが観念として自我に内在する結果となれば、自我はその対象を剛田的な意味で所有しているといえるのである。

3、心身二元論
 しかし、注意していただきたいのが「~のもの」の「もの」の部分である。この言葉の背景には心身二元論があることを知っておかねばならない。剛田によれば「わたしの自我」という言葉は成り立たないという。自我とは「わたし」そのものであり、「わたし」=自我なのである。そして、そうした誤謬を防ぐ為、剛田は「もの」という単語を取り入れる。これによって、物質的な身体と、精神的自我を区別している。つまり、「わたしの自我」は成り立たないが、「わたしの身体」は成り立つのである。

4、「おまえのもの」が「おれのもの」であるということについて
 以上の説明で「おれのものはおれのもの」という箇所についての意味は概ね理解していただけたであろう。しかし、だからといって「おまえのもの」まで「おれのもの」になるのはなぜか。『物体と自我』第3章には次のように述べられている。
 確かに私は他我の流動的現実については何ひとつ知る術はないであろう。しかし、私は私が知る限りにおいてのあなたの所有物については、私も既に所有しているのである。もちろん他我から発せられる言動、他我の外観もそれにあたる。その観念は確かに私に影響を及ぼし、そのうちのひとつでも欠けていたとしたら、それはとても些細な相違かも知れないが、私は現在の私と、その観念が欠けている私の間に間違いなく相違点を見つけるであろう。(『物体と自我』p.142、2004、石皮新書)
つまり、「わたし」が観念を持った対象は他我の所有の範囲にあろうとなかろうと、等しく「わたし」の所有するところとなる。所有することができないのは他我そのもののみであり、このことは先に述べたが「おまえのもの」の「もの」という部分で示されている。

5、独我論
 『物体と自我』において最後に問題とされるのが他我の存在である。剛田によればこれは人間の理性の限界を超えたものであり、判定不可な問題であるという。そしてこの問題についてのとるべき態度について、剛田は次のように述べている。
 理解しえないことについて、我々は議論においては沈黙すべきであるが、実践上の態度としては一貫性が必要であると思われる。というのは、確かに何かを成す時は確実な土台を持った上でそのことに臨むのが最良ではあるが、基盤が未決定の状態で何かに臨むよりは、それが仮定的であるにしても、一応の基盤を確固として築いた上で何かに臨むほうが、目的に対して合理的に行動できるからである。私がこの問題について仮定的に築いた土台とは、他我の存在を認めず、独我論的に生きることである。(『物体と自我』p.285、2004、石皮新書)
剛田はこのような信念より、独我論の立場をとるに至ったのである。

6、さいごに
 独我論的立場から、剛田は哲学体系としての「おまえのものはおれのもの・・・」を導き出すほか、他方で実践的「おまえのものはおれのもの・・・」理論を築いた。それこそが野比のび太に対する批判であり、彼に対する強硬姿勢に繋がるのである。

参考文献

剛田武著(2004) 『物体と自我』 石皮新書






※上に述べたことは全てフィクションです。
by ecm84 | 2007-04-24 22:03
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